死を考えること

「自殺を考える自分に罪悪感を感じます」
「死にたいとしか思えずつらいです」
「私さえいなければと考えてしまいます」

はじまりとおわりが交差する春先になると、ご相談の締め言葉に何かとこういう言葉が増えてきます。春先に限らず春夏秋冬あることですが、このテーマは個人的に重要視したいので改めて文章でも残そうと思います。

以下はSYNCHROOMの私見です。
あくまで「自殺について考えること」への考察であり、決して自殺や自傷行為の推奨・幇助ではありません。 



わたし自身は「自殺を考えることは悪いことではない」、むしろ自然な思考だと考えています。
そもそも死を善悪で語ることに疑問を感じるので 自殺=悪 という倫理感にもあまり囚われていません。

《生》を想う過程に 真反対の《死》が現れるのはごく当たり前の現状で、なぜなら人は選ばなくともかならず死ぬからです。
しかしそのタイミングを恣意的に動かすという選択はかなり重大です。これは自殺に限らず、ときには最近話題の「尊厳死」「安楽死」なども含まれます。後者は医療面をも考慮した積極的選択ですが、どちらにしろ やはり死という不動の運命に自ら作用していくという点においては、非常に強いWILL=意志を感じます。

強いWILLのもと死を選んだとして、場合によりますが、死ぬには案外時間がかかります。生きるのと同じくらいある程度の準備が必要です。準備の間は基本的に死ぬことしか考えられませんが、少なからず振り返る生の体験があります。
死に支度の時間を生き支度の時間にすることもできるわけで、どちらのほうが有意義で可能性があるかという話です。


死を考えるときのほとんどは、生を悩んでいるときです。
あなたのWILLは死よりもむしろ生に向いているのかもしれません。

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